midnight blue

映画と恋と

君の名前で僕を呼んで/僕らは太陽のこども

cmbyn-movie.jp

 83年、夏。家族に連れられて北イタリアの避暑地にやって来た17歳のエリオは、大学教授の父が招いた24歳の大学院生オリヴァーと出会う。一緒に泳いだり、自転車で街を散策したり、本を読んだり音楽を聴いたりして過ごすうちに、エリオはオリヴァーに特別な思いを抱くようになっていく。ふたりはやがて激しい恋に落ちるが、夏の終わりとともにオリヴァーが去る日が近づいてきて……。(映画.comより)

  祝・アカデミー賞脚色賞受賞(ジェームズ・アイヴォリー)!ということで、鑑賞後に原作も読んだ。寡黙で慎ましやかな映画に対して、原作は赤裸々でロマンチックな文章の宝庫!物語に関しては、省かれたエピソードはあれど、基本的には原作に忠実な脚色だと思う。ただ、終盤にはいくつか原作から変更している箇所がある。これは、アイヴォリーが”エリオを肯定すること”に心を砕いた結果なのではないだろうか。あのあまりに優しい夏の終わりに、恋の終わりに、この映画がいま撮られた意味があったように思うのだ。

  終盤の脚色について、順に触れていきたい。まず、エリオとオリヴァーのつかの間の旅行が終わり、エリオが駅で途方に暮れるシーン。原作ではエリオは何食わぬ顔で駅へ迎えにきたアンチーゼ(庭師。映画にもいたっけ?)とともに帰宅する。一方映画では、エリオは泣きそうになりながら家へ電話をかけ、母親に迎えに来てもらうよう頼む。
  次に、駅からの帰り道でエリオがマルツィアに声を掛けられるシーン。彼女は「わたしたちは一生友達」と言うが、このシーンは原作にはない。わたしはこのマルツィアの振る舞いに不満を感じた。マルツィアはエリオに失恋をした身なのに、どうしてこんな”大人な”対応をしなくてはならないのか。しかし、この映画が”エリオを肯定すること”に重きを置いていると考えれば、理解はできる。前述の母親による迎えのシーンもそうで、親に甘えることができる(目の前で泣くこともできる)/親もその思いに応えることができるのはとても健全なことだ。さらに、自分のことを理解して側にいようとしてくれる友達もいる。そう、アイヴォリーはエリオが孤立しないことを願ったのだ。もちろん原作でもエリオはいろいろな人から守られていたけれど、映画ではより明確に、言葉や態度で連帯の意思が表されていたように思う。その意図は、書くまでもないだろう。
  さて、最後は映画でオリヴァーが結婚する旨を電話してくるシーンである。原作では、オリヴァーはエリオの家に泊まりにきて、エリオに直接結婚することを伝える。なぜ電話での報告に変更したのかについては、あまりしっくりくる案はないのだけれど、強いて言うならエリオとオリヴァーの距離を強調したかったのではないかと思う。
  理解のある親と暮らすエリオと、自分を押し殺して生きざるをえないオリヴァー。戯れのようにお互いを自分の名前で呼びあったときとは違い、このときのオリヴァーにとって”エリオ”と呼ばれるのはつらかっただろう。オリヴァーはエリオのようには生きられなかった。そして、エリオに自分のようになってほしくなかっただろう。振り絞るように一度だけ、エリオを”オリヴァー”と呼ぶ声が、とても悲しかった。

  原作では、エリオとオリヴァーの関係はあの冬のあとも緩やかに続く。一方映画では、(続編が企画されているとはいえ)オリヴァーの電話によって、二人の恋は一旦決着する。ラストシーン、暖炉を眺めるエリオ/ティモシー・シャラメのあの顔!映画ならではの手法で、大切な恋と少年期の終わりを、そしてこれからも続いていくであろう人生を描いてみせる。悲しみを悲しみとして受け入れること、涙を流すこと。これは劇中最も心を打たれる父親の台詞(もちろん原作にあり、映画でもとても忠実に再現されていた)にも通じる。君は間違っていない、人生はまだまだこれからだよ。そんな優しい声が聞こえてくるようだった。