midnight blue

映画と恋と

彼の見つめる先に/There's Too Much Love

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目の見えない少年レオは、ちょっと過保護な両親と、優しいおばあちゃん、いつもそばにいてくれる幼なじみのジョヴァンナに囲まれて、はじめてのキスと留学を夢見るごく普通の高校生。でも何にでも心配ばかりしてくる両親が最近ちょっと鬱陶しい。ある日、クラスに転校生のガブリエルがやってきた。レオとジョヴァンナは、目が見えないことをからかったりしない彼と自然に親しくなっていく。レオはガブリエルと一緒に過ごす時間の中で、映画館に行ったり自転車に乗ってみたり、今まで経験したことのない新しい世界を知っていくのだが、やがてレオとガブリエル、ジョヴァンナ、それぞれの気持ちに変化がやってきて…。(公式HPより)

2015年のGWのこと。渋谷・ユーロスペースで開催されていたブラジル映画祭で、『彼の見つめる先に』を観た。こんなにハッピーで、キュートな映画があるのか、と思った。普通の青春映画なのに、すごくすごく新しかった。映画が終わってから、渋谷の街をまっすぐ走って、いや途中でTSUTAYAに寄ったな(ベル・アンド・セバスチャンのアルバムを借りるために)、最寄り駅に着いたらエスカレーターを駆け上がって、たぶんスキップなんかもしながら家に帰った。なんだか走りたくて仕方がなかった。なんだってできる気がした。映画を頻繁に観るようになって四年くらい経つけれど、あの夜のような気分になったのは、数えるくらいしかない。
その次の年、東京で再上映の機会があり(カップリング上映されたのは『アメリカン・スリープオーバー』!)、多摩まで観に行った。二回観たからもう字幕がなくても平気だな、と思い海外版のソフトを買った。いつ観ても最高の映画だった。人生において特別な映画というものが誰しもあると思うけれど、『彼の見つめる先に』は、わたしにとってそんな映画だ。

レオナルドは、周囲から必要以上に干渉されていることを(もちろんそれは愛情ゆえなのだけれど)不満に思っていて、そこへガブリエルが現れる。ガブリエルは、きっと両親もジョヴァンナもやらないこと、たとえば映画やダンスに誘ったり、深夜に月食を見るために家から連れ出したりして、レオはいくつもの初めてを経験する。大きな音に驚きながら、映画を観ること。深夜に家を抜け出すこと。自転車で風を浴びること。音楽に合わせて体を揺らすこと。パーティーに行くこと。夜のプールで泳ぐこと。キスをすること。ガブリエルは、レオを否定しない。”できない”のではなくて、”できないと思っている”だけなのだと教えてくれる。だからレオは、いろんなことに挑戦できる。知らなかった世界に出会える。この人がいれば、どこへだって行ける気がする。恋ってきっと、そういうものなのだと思う。だからラストシーンで、彼らは手を取り合い、わたしたちの前を自転車で駆け抜けていくのだ。

ラストシーンでの二人は、幸福感に満ちていてあまりにも美しい。それでも頭のどこかで二人の未来について、その結末について考えてしまう。二人はカップルとして周囲に認めてもらえるのか?レオの障害についてガブリエルは思い悩むだろうか?それこそ、数多のLGBTQ映画で描かれてきた悲惨な出来事が、二人に降りかかってしまうのではないか?
しかしふと思うのだ。盲目のレオが留学を望んでいると知った職員の対応を。レオを穏やかに諭す父親の姿を。将来への不安をこぼしたレオに言葉をかける母親の微笑を。ガブリエルを愛している、と告げられたジョヴァンナの戸惑いと、それでも口にした祝福の言葉を。ガブリエルがレオを見る真っ直ぐな眼差しを。本作がどこまでも普通の映画であることの意味を。盲目であることも、ゲイであることも、本作においては何も変わったことではない。彼等にもいつか悲惨な結末が、という嘆き自体が本作にはない。そんな過去はもう十分だと、こんなにも高らかに宣言しているではないか。いつかレオとガブリエルに別れが訪れるとしても、それは幾多の映画で描かれてきた恋人たちの別れのように、ごくありふれたものであるはずなのだ。そしてだからこそ、二人の手を取り合って踊るようなあの恋がいつまでも続きますように、と願わずにいられない。

勝手にふるえてろ/ちゃんとすきって言って

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勝手にふるえてろ』を観た。二回観た。もう一回くらい観に行くかもしれない。だってこれは、傑作でしょ?

芥川賞作家・綿矢りさによる同名小説の映画化で、恋愛経験のない主人公のOLが2つの恋に悩み暴走する様を、松岡茉優の映画初主演で描くコメディ。OLのヨシカは同期の「ニ」からの突然の告白に「人生で初めて告られた!」とテンションがあがるが、「ニ」との関係にいまいち乗り切れず、中学時代から同級生の「イチ」への思いもいまだに引きずり続けていた。一方的な脳内の片思いとリアルな恋愛の同時進行に、恋愛ド素人のヨシカは「私には彼氏が2人いる」と彼女なりに頭を悩ませていた。そんな中で「一目でいいから、今のイチに会って前のめりに死んでいこう」という奇妙な動機から、ありえない嘘をついて同窓会を計画。やがてヨシカとイチの再会の日が訪れるが……。監督は「でーれーガールズ」の大九明子。2017年・第30回東京国際映画祭コンペティション部門に出品され、観客賞を受賞した。(映画.com)

勝手にふるえてろ』は、現実より自分だけの世界を選んで生きてきた女性・ヨシカの物語だ。自分だけの世界を象徴するのが、中学生の頃から十年間片想いをしているイチ。対して現実を象徴するのが、会社の同期で突然ヨシカに告白してきたニ。脳内に住む(中学生の姿のままの)イチを愛で、自分の話を聞き相槌を打ってくれる人々に囲まれる、優しい世界に生きてきたヨシカだが、ニの登場により目をそらしてきた現実に向き合わざるを得なくなる。単調な仕事、無味な毎日、叶わない初恋、漠然とした焦り。睫毛が長くてかわいい友達・来留美は、知らないうちに同僚に恋をして付き合っている。ヨシカがイチとの会話を飽きずに思い返しているうちに。ねえ、わたしとあなたは何が違うの?どうして、いつから、わたしはこうなったんだっけ?スクリーンの中で必死に生きるヨシカの姿に胸が痛むのは、彼女のことをよく知っているから。ああヨシカ、わたしも恋人に出会わなかったら、あなたと同じだったかもしれないんだ。

ヨシカが十年間も片想いをしているイチがどういう人物なのか、劇中ではよくわからない。きっと、ヨシカもよく知らないだろう(彼女がイチをすきになったのはたぶん、顔がタイプとか、落としたものを拾ってくれたとか、みんなが注目しているからとかでしょう、中学生ってそうなんだよ)。ヨシカにとって大事だったのは、イチ自身というより、十年間イチをすきだったという事実のほうだから。それは彼女のすべてだった。

それに対して、ニは生き生きした人間として描かれる。はっきり言って、ニは嫌なやつだ。断りなくパーソナルスペースへ入り込み、飲み会では「経理の女性っていいですよね」と古典的な女性観を披露し、ヨシカのことはお構いなしに自分のことを話そうとする。絶対ヨシカとはうまくいかない。性格も趣味も合わない。
それでも、ニは粘る。ヨシカに相手にされなくてもコンタクトを取り続け、傷心のヨシカに寄り添う。ヨシカが気に入ってくれたら嬉しい、とニの行きつけ(?)の体育館へ行くシーンは印象的だ。そこで二人は卓球をする。卓球は互いに向き合い、玉を打ち合うスポーツだが、ニと、明らかに初心者なヨシカの間では、卓球は打ち合いではなくコミュニケーションだ。相手の動きを見、玉を返してラリーを続ける。イチへの想いで頑なだったヨシカが、だんだんニへ打ち解けていく。それは、初めて一対一で誰かと向き合うことができたからではないか。自分の打った玉、あるいは言葉が、相手の力で打ち返されてくる。ずっと自分とだけ会話してきたヨシカには、きっと嬉しかったはずだ。二人の関係が付き合っている/いないの微妙なラインで推移したのち、ヨシカから“付き合ってる”と言われてニが取るリアクションがかわいい。超かわいい。
終盤、ヨシカにひどい態度をとられ、ヨシカを着信拒否するほどに傷ついても、結局ヨシカの頼みでニは彼女の家へ来てくれる。十割方ヨシカが悪くても、彼女を気遣う優しさがニにはある。それはやっぱり、ヨシカのことがすきだからだろう。
このヨシカとニの言い合いのシーンは、前述の卓球シーンの変奏だと思う。今回はラリーを続けるのではなく、お互いにスマッシュを打ち合うものだけれど。孤独に苛まれて自意識がこじれまくったヨシカに、諭すようにあやすようにニが想いを告げるこのシーンは、恋の美しさに満ちている。ニは、序盤の彼と同一人物とは思えないくらい魅力的だ。それはきっと、ヨシカにとっても。ヨシカのどこがすきか問われて、顔とか性格とか◯◯とか△△じゃなく、“一緒にいたくなるから”というのは、ずるい。ありのままの自分を、まるっと肯定してくれる言葉だから。想い続けたイチには触れられなかったけれど、ニはここにいる。手を伸ばせば髪に触れられる。名前を呼べば答えてくれる。胸に飛び込めば抱き寄せてくれる。この世界はヨシカにとって優しくない。それでも、名前を呼ばれるのは嬉しいから。

恋の効能はいろいろとあるだろうけれど、いちばん大きいのは自己肯定感の向上だと思う。何もかもがうまくいかなくても、“わたしのことをすきな人がいる”という事実があればきっと生きていける。大袈裟かもしれないけれど、年季の入った自己嫌悪にいちばん効くのはたぶん、誰かから贈られる“すき”なのだ。